北海道人カフェ

2018年北海道命名150年。歴史と未来。

ひとつ鍋

依田勉三が率いた晩成社は、十勝の開拓、農業の基礎をつくりました。

彼らが生きた日々をみると、困難、困窮の連続だったことがわかります。

六花亭では、偉人ゆかりの品に思わず手が伸びてしまいます。

(マルセイバタサンド 十三戸  ひとつ鍋)

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「北海道の開拓者」三田評論

https://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1110_1.html

 

煉瓦建築

赤れんがと呼ばれる北海道庁旧本庁舎は、明治21年建築です。

建築が始まった明治19年ころの政府はまさに欧化政策の真っ最中。火に強く、西欧のような街づくりを志向した新建材の煉瓦が主流となっていました。施主は初代北海道庁長官岩村通俊。鹿鳴館の建築費を上回る規模の建築予算からも当時の政府の北海道開拓への意気込みが伝わってくるようです。

一方、道内で煉瓦製造が始まったのは、明治5年函館近郊の茂辺地の官営工場。開拓長官黒田清隆による外貨獲得、殖産興業策の目玉のひとつに煉瓦もありましたが売れ行きはさっぱり。官営工場は閉鎖、製造再開を繰り返し、思うようにはいかなかったようです。

結局、赤れんが庁舎は札幌煉瓦と呼ばれる民間企業による生産に支えられたものとみられています。

道内での煉瓦建築は、大きなものでは、明治18年の手宮機関庫に始まり、20年には製麻工場、22年には製糖工場(現サッポロビール博物館)などの、鉄道、港湾、採鉱など土木工事での需要も伸びていきます。

残念なことに、その後コンクリートが主流となり、煉瓦建築のピークは明治40年とされています。

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北海道開拓の歌

元旦に北海道神宮境内社である開拓神社で、開拓に尽力された人たちの歌を思い出しました。

 「胆振日記」(いぶりにっき)は、明治11年、遊楽部、現在の八雲に移住した元名古屋藩士の角田弟彦氏が著したものです。大正初期にかけての貴重な開拓史料とされています。開拓者の心境が込められた数多くの歌が収められています。

ちょうど新年によまれた歌があります。
▷新らしき年を迎へつしら雪のふりにふりぬる荒野への上に
▷年来ぬと何さわぐらんかざすべき梅も柳も松もなき野に
▷やよひまで雪はありともユウラフの野風ぬるまん春をやまて

困難の連続であった日々に、仲間の家で歌の会が長く続いていたようです。移住された人たちにとって、きっと互いの苦労をねぎらい励ましあう大切な時間だったのだと思います。 

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